多摩川七福神
延命寺の寿老人にやってきました。
東八幡神社から戻って来る感じです。
延命寺の縁起
延命寺は、鎌倉光明寺2世白籏寂惠良暁上人
(嘉暦3年1328年歿)が開山となり、
弘安年間(1278-1298)
蓮花寺と号して創建したといいます。
永緑年間(1558-1570)に中興2世芳誉が
当地に再興、延命寺と改称しました。
「大田区の寺院」による延命寺の縁起
開山は鎌倉光明寺2世白籏寂恵良暁(嘉暦3年歿)で、村民の請願により、弘安年中念仏宣布の道場として蓮花寺を開創したが、延文年中(1356~60)雷火のために堂字を焼失した。
永緑年間に至って中興2世芳誉により、火難をのがれた延命地蔵を奉安して、現在の地に堂字を建造し、延命寺と称した。
文化4年(1807)19世法誉が改修。明治初期には、4面五百羅漢彫刻の地蔵堂が、23世戒誉により建立された。本堂、庫裡は大正12年(1923)の震災により破損し、昭和7年(1932)明誉徳賢代に修復したが、今次大戦の空襲によって、昭和24年(1949)4月灰燼に帰した。現在の本堂は昭和33年(1958)庫裡は昭和31年(1956)再建したものである。
当寺には年中行事の夕に、双盤念仏会があり、十夜法会、春秋彼岸会、または孟蘭盆会などに、鐘、太鼓を打ちつつ、1廻り約1時間念仏を称える集りがあり、11月23~4日の両日には、夜を徹して行われる。(「大田区の寺院」より)
新田義興の怨霊が放った雷によって
焼失した。という話が伝わっている。
火災を免れた延命地蔵尊を安置する
寺を再建する際に今の名前になった。
地元に由来するエピソードが残って
いるのは貴重である。
大田区の寺院」による延命寺の縁起
開山は鎌倉光明寺2世白籏寂恵良暁
(嘉暦3年歿)で、村民の請願により、
弘安年中念仏宣布の道場として蓮花寺を
開創したが、延文年中(1356~60)
雷火のために堂字を焼失した。
永緑年間に至って中興2世芳誉により、
火難をのがれた延命地蔵を奉安して、
現在の地に堂字を建造し、延命寺と称した。
文化4年(1807)19世法誉が改修。
明治初期には、4面五百羅漢彫刻の地蔵堂が、
23世戒誉により建立された。
本堂、庫裡は大正12年(1923)
の震災により破損し、
昭和7年(1932)明誉徳賢代に修復したが、
今次大戦の空襲によって、
昭和24年(1949)4月灰燼に帰した。
現在の本堂は昭和33年(1958)
庫裡は昭和31年(1956)再建したものである。
当寺には年中行事の夕に、双盤念仏会があり、
十夜法会、春秋彼岸会、
または孟蘭盆会などに、
鐘、太鼓を打ちつつ、
1廻り約1時間念仏を称える集りがあり、
11月23~4日の両日には、夜を徹して行われる。(「大田区の寺院」より)
多摩川七福神の旗と寿老人の旗が
並んでました。
この奥の部屋に御神体が
安置されています。
寿老人の御神体がありました。
足元には鹿がおります....
寿老人確認しました。
寿老人(じゅろうじん)
道教の神仙(神)。
中国の伝説上の人物。
南極老人星(カノープス)
の化身とされる]。
七福神の一柱
橘守国画の寿老人。
真言(サンスクリット)は、
「オン バザラユセイ ソワカ」
(普賢菩薩の延命呪と同じ)。
酒を好み頭の長い長寿の神とされる。
日本では七福神として知られているが、
福禄寿はこの寿老人と同一神と
考えられていることから、
七福神から外されたこともあり、
その場合は猩猩が入る。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる
瓢箪を運び、長寿と自然との
調和のシンボルである牡鹿を従えている。
手には、これも長寿のシンボルである
不老長寿の桃を持っている。