世田谷区② 松陰神社
豪徳寺の招き猫達を堪能してから
次は松陰神社を目指します…
品川橋と書いた通りを
歩くと、ここにも
猫のモニュメントが見られます。

木に捕まる、石像ネコの
モニュメント。

顔を前足で洗う
虎猫のモニュメント、
まだ先にもありそうですが
松陰神社に行くのに
横路に逸れてしまうので
割愛して、普通の通りに戻ります。

そして黒い鳥居が見えて来ました、

到着しました。
社府 松陰神社と石に
刻まれています。

松陰神社の習わしについて
記載されてます。


ここの見取り図です。
世田谷区役所の側ですね。


参道を歩くと
吉田松陰先生像が見られます。

⭕️松陰神社は山口県萩市および
東京都世田谷区にある神社である。
幕末の思想家・教育者である吉田松陰、
および彼の門人である伊藤博文、
山縣有朋はじめ、松下村塾の生徒を
祭神とする。
学問の神として崇敬を受ける。
とありました

このブロンズ像
平成25年に鋳造されたそうです。


昔の道しるべの道標です。
松陰神社道と刻まれています。

参道には数多くの
灯籠が設置されてました。


松陰神社の社殿前です。

松陰神社の右手にも
松陰先生の像がまた、
設置されてます。

そして、そこには
松下村塾が再現されています。

松下村塾とは....
松陰先生の教育道場であった松下村塾は、
叔父の玉木文之進が天保13年(1842)
寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが
村塾の名の起こりです。

塾長は玉木氏が公務多忙の間、
久保五郎左衛門が安政4年(1857)
まで引継ぎました。その後、
松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、
さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって
明治25年頃まで続きました。
(玉木氏は明治9年死亡)

松陰先生は嘉永5年(1852)
23才の時は半年ほど、安政2年(1855)
26才の冬出獄
(米艦に乗船を企てて投獄されていた)
してから安政4年(1857)11月迄、
杉家(松陰の実家)で子弟を
教育していました。
この月の5日にはじめて八畳一間の塾舎が
完成することとなり、松陰先生はこの時から
塾に起居し塾生に対し師弟同行の
実際教育を指導しました。

塾生が増加して手狭になったので
安政5年(1858)3月、十畳半の
増築がおこなわれました。
松陰先生が名実共に公に認められたのは、
安政5年7月20日、先生29才の時、藩主より家学(山鹿流兵学)教授を許可され、
これから同年12月安政の大獄に連座し
投獄されるまでの5ヶ月の間のことでありました。実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政3年8月の頃より安政5年末に投獄されるまでの、通算2ヶ年半程であったようです。

松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ
90名前後と言われており、
久坂玄瑞、高杉晋作、前原一誠、
山縣有朋、品川彌二郎、
伊藤博文など明治維新を通して
近代日本の原動力となった
多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。

本神社にある松下村塾は山口県萩の
松陰神社境内に保存されている
松下村塾を模したものです
ハリボテな作りもしっかり再現
されています。

社殿、左手には
松陰先生の記念碑等が見られます。



では松陰神社を後にします。

場所は若林駅より徒歩
数分ほどで到着です。
