マイケルジャイルズ/ KC Ⅰ 期メンバー
(全てネツトより抜粋)
マイケルジャイルズ
1942年3月1日生まれ
シーンの主流がビートバンドから
アートロックに切り替わる
1967年春に、ブレイン
(トレンドセッターズの改名後の名称)を脱退。マイケルはピーターと
歌えるオルガン奏者の募集広告を新聞に載せ、
応募してきた地元ドーセットのギタリストロバート・フリップが加入し、
同年8月新バンド・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ(以下GG&F)を結成する。
GG&Fからキング・クリムゾンへ編集
1968年9月13日、GG&Fのファースト・アルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ』が発売される。
やがてイアン・マクドナルド、ジュディ・ダイブルら新メンバーの加入、ピーターから
グレッグ・レイクへのベーシストの交代などを
経て、バンドはキング・クリムゾンと改名。
1969年に
『クリムゾン・キングの宮殿』
を発表してデビューを飾る。
脱退とその余波編集
『クリムゾン・キングの宮殿』
発表後、キング・クリムゾンは
1969年10月からアメリカ・ツアーを
開始するが、このツアーの中で
マイケルとイアン・マクドナルドは
リーダーであるロバートとの
溝を深めていく。
過酷なツアーの中での心身の疲労に、
プライベートな事情も加わり、
同年12月には二人は
キング・クリムゾンからの脱退を表明。
これとは別に、グレッグ・レイクも
元ナイスのキース・エマーソンとの
新バンド
(後のエマーソン・レイク&パーマー)
の準備のために脱退し、
オリジナル・メンバーの
キング・クリムゾンはわずか
アルバム一枚を残したのみで終焉を
迎えることになった。
1970年5月にキング・クリムゾンはセカンド・
アルバム『ポセイドンのめざめ』を発表。
マイケルはここではゲスト扱いでプレイしている。次いでイアンとのプロジェクトである
「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」を結成。
そのデビュー・アルバムは一部評論家からは
高い評価を得た。
セッション・ドラマーとして編集
しかしマクドナルド・アンド・ジャイルズは、
その音楽面における評価に反し、
商業的成功を得ることはできなかった。
マイケルはキング・クリムゾン時の
アメリカ・ツアーにおいてアメリカ人の
音楽に対する柔軟性に触れ、
自らの創作活動に迷いを感じるようになっていた。またイアンの方は、レコーディングに多大な時間と費用をかけ過ぎたためラフミックスの状態で出さざるをえなかったと後に述べており、
作品自体への不満からこのプロジェクトへの
モチベーションを失いつつあった。
さらに彼は、
恋人シャーロット・ベイツ
(同作品のジャケットで共に写っている女性)
との関係終焉後、
セラピーのため渡米することになり
結局マクドナルド・アンド・ジャイルズも
アルバム一枚を残したのみで
消滅することとなった。
以後のマイケルはセッション・ミュージシャンとして活躍している。
ソロ活動編集
1999年には旧友イアン・マクドナルドの初ソロ作『ドライヴァーズ・アイズ』にも参加。
2002年には、マクドナルド・アンド・ジャイルズのリマスター作業を2人共同で仕上げた。
その後、イアン、弟ピーター、メル・コリンズ、ジャッコ・ジャクジク(元レベル42、ロング・ハロー。マイケルにとっては娘婿)
といったメンバーからなる
「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」を結成し、かつてのキング・クリムゾン・サウンドを回顧するかのごとき演奏活動も行っている(その後、マイケルは2003年に脱退し、ドラマーはイアン・ウォーレスに交代)。
また唯一のソロ作品『プログレス』を2002年にリリースしているが、これは1978年において録音済みであったものが25年ぶりに日の目を見たものである。
2008年には新たに
「マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド」
を結成。こちらは過去のクリムゾン・サウンドとは一線を画するアヴァンギャルドな作風であり、
2011年までにスタジオ作品とライブ作品の
各一枚ずつをリリースしている。
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