starressのブログ

日々の、出来事を何となく綴りたいと思います。

ビル ブルーフォード

(ほぼ全てネットより抜粋です。)

ビルブルーフォードは

音楽誌「メロディ・メーカー」の

メンバー募集の広告を出していた

ジョン・アンダーソン、クリス・スクワイアと連絡を取り、イエスに迎えられることとなった。彼によると、イエスをジャズ・バンドだと思って加入したそうである。





一度はイエスを抜けて大学に通うが、

イエスに復帰し、

デビュー・アルバム

『イエス・ファースト・アルバム(Yes)』




(1969年)を録音し、多くのライブ活動をイギリス各地で行なっている。

その後のイエスのアルバム

『時間と言葉(Time And A Word)』

(1970年)



『イエス・サード・アルバム(The Yes Album)』(1971年)



『こわれもの(Fragile)』(1972年)



『危機(Close To The Edge)』(1972年)




でドラマーを務めた。この時期はイエスにとって、いわゆる「黄金時代」とされている時期である。



キングクリムゾンのアルバム

『アイランズ』の、メンバー全員が離散して、

ただ一人だけになった、ロバートフリップ

新しいメンバーを探す事になった。

その中でこんな逸話がある。


イエスのドラマーのビル ブルーフォードがある時、酒を飲みに酒場に入った。

そこは初めての店で、たまたま通りかかっただけだったと言う。

ただ無性にそこに入りたくなったらしい。

中に入ると、なんとそこには

ロバートフリップが居て、


『 やあ!君が来るのを待っていたよ!』



と告げられたそうだ。


この頃フリップは黒魔術に倒錯していたらしく、彼が来るのを分かっていたらしい?



この件もあってか、ビルはキングクリムゾンに

加入する事を決意した。

バンド的には既に格上のイエスを辞めて、

キングクリムゾンに加入するのだから、

並々ならぬ決意だったに違いない。


○インタビュー記事


キング・クリムゾンへ移った時、

「なんて事をしてしまったんだ」

と思ったか、あるいはすぐに解放された気分だったでしょうか?



それはもちろん、天にも昇る心地で

解放的な気分だったよ。

ロバート・フリップが


「Larks’ Tongues in Aspic, Part One」


や私のお気に入りの


「Part Two」


を弾き始めると、私は

「これこそ自分が求めていたものだ!」

と思った。本当に凄かった。

ゾクゾク感じた。上手く表現できないが、

「なぜあのドラマーはこのバンドを辞めて、あっちのバンドへ移ろうとしているんだ?」

というような感じの閉鎖的な環境に

いたということだ。

移籍しようという考えはあまりなかったが、

とにかく自分の目が覚めたことはわかった。

気分が一新できたんだ。

解毒できたという表現がふさわしいかもしれない。イエスが毒だったという訳ではないが、

22歳かそこらで人生の転換期を迎えたと

いうことだ。それから『Red』

までの約2年間続いた。それからさらに

傷つきながら経験を積み、

たいていの事は上手くこなせるようになった。

特にドラムテクニックは向上したと思う。





アルバム『危機』の発表後にイエスを脱退し、

キング・クリムゾンに加入。

スタジオアルバムでは

『太陽と戦慄』(1973年)



『暗黒の世界』(1974年)



『レッド』(1974年)に参加した。

こちらではイエスの構築美とは対照的に

激しい即興演奏の妙味を聴かせている。





アルバム『暗黒の世界 Starless And Bible Black』では、ジェイミー・ミューアの名前はクレジットされていない。彼は、クリムゾンのようなマンモスビジネスを手掛けるバンドの動向に嫌気がさし、きっぱりと音楽活動から足を洗い、庭師になってしまったのだ。しかし、彼の残した影響力は大きく、『暗黒の世界』におけるビル・ブラッフォードのドラミングに、はっきりとジェイミー・ミューアの面影を認識することができる。ブラッフォード自身、最も影響を受けたミュージシャンの1人にミューアの名前を挙げているという事実もある。

 『暗黒の世界』は、ライブ音源によるインプロビゼーション中心の曲がほぼ半分を占めていたせいか、トータルバランスと言う点で、やや纏まりに欠ける感が有る。

だが、このアルバムに収められている“突破口 

Fracture”は、プログレ史上屈指の名曲である。

冷ややかで、破滅感すら感じてしまう独特な

ギターの旋律がとてもスリリングで、

「よくもこんな難解なフレーズを、

ここまで正確に弾きこなせるものだ。」

と感心してしまう。前作から始まっている、

この時期のクリムゾンのコンセプトが、

明確に表現された傑作である。

そして同年、ついに正メンバーが、

フリップ、ウェットン、ブラッフォードの

3人になってしまったキング・クリムゾンは、

クリムゾン作品の中で確実に3本指に入り、

最高傑作に挙げるファンも多い『レッド』を

リリースする。

聴く度に気持が高揚してしまうタイトルチューンの“レッド”をはじめ、名曲ばかりがぎっしり詰まった完璧なアルバムであった。

しかし、この作品で、まさに音楽水準のレベルメーターが、レッドゾーンを越え、

完全に振りきってしまったためか、

1974年11月、キング・クリムゾンは、

長い冬眠に入ってしまう



キング・クリムゾンのメンバーである

ジョン・ウェットン(ボーカル、ベース)と

ビル・ブルーフォード(ドラム)が、

キング・クリムゾンのような

インプロビゼーション主体の

ロックを再びプレイしようと話を

したことに端を発する。


1976年、ELPを発展させた音楽を作って

米国の市場を開拓しようという

コンセプトのもと、ウェットンと

ブルーフォードは元イエスの

リック・ウェイクマンを誘い、

キーボード・トリオ編成での活動を試みるが

レコード会社の問題

(当時にウェイクマンの所属していたレコード会社、A&Mが「リック・ウェイクマンのバンド」として売り出すことに固執したと言われている)、マネージメントの問題(ギャラの配分及びバンド名に個人の名称を入れるかどうかで意見が分かれたと言われている)で数週間のリハーサルのみで挫折。このときにリハーサルされた曲の一部は後にブルーフォードのソロ・アルバム『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』にて別アレンジで公開されている。


1977年、ウェットンがロキシー・ミュージックで一緒になったエディ・ジョブソン(キーボード、ヴァイオリン)に参加を打診。リハーサルの途中でギタリストの必要を感じたのでブルーフォードが自身のソロ・アルバム『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』に参加していたアラン・ホールズワース(ギター)を誘い、ファースト・アルバムに参加する4人のメンバーが決定した。


1978年、このメンバーによるファースト・アルバム『U.K. (憂国の四士)』をリリースしツアーを行う。



ツアーでは新曲も披露されるがこの時点で音楽性の不一致は隠せない物となる。ホールズワースが解雇されることになり、ブルーフォードも脱退することとなった。ブルーフォードとホールズワースはよりジャズ/フュージョン的な音楽性を求め、フュージョン・バンド「ブルーフォード」を結成する。



1977年当時、ジャズ・ロック・バンド「ナショナル・ヘルス」に在籍していたドラマーのビル・ブルーフォードは、デイヴ・スチュワート(キーボード)、ジェフ・バーリン(ベース)、アラン・ホールズワース(ギター)というカンタベリー・ロック人脈を集めてソロ・プロジェクトを開始。デビュー・ソロ・アルバム

『フィールズ・グッド・トゥ・ミー』

をリリースする。



同年、ナショナル・ヘルス降板後、プログレッシブ・ロック・バンド「U.K.」を結成。そして翌1978年に脱退した後、ソロ・プロジェクトに専念し、「ブルーフォード」の名でバンド形態に発展させる。



1979年、ほぼインストゥルメンタルで

構成されるアルバム

『ワン・オヴ・ア・カインド』をリリースした。


同年のライブ・アルバム『ザ・ブルーフォード・テープス』(元はラジオ局のWLIRで放送されたライブ音源)と、その時期の関連ツアーにてホールズワースが降板し、ジョン・クラーク(元Quasar)が後任を務めた。




1980年、アルバム

『グラデュアリー・ゴーイング・トルネード』



をリリース。

主宰するビル・ブルーフォードは、

キング・クリムゾン時代の同僚ロバート・フリップと共同で「ディシプリン」プロジェクト

(後の再始動キング・クリムゾンに発展)

に注力するため、この年でバンド活動を解消した。


1981年に、再結成されたキング・クリムゾンに参加。

最先端のエレクトリック・ドラム「シモンズ」を使ったポリリズムが話題となった。

再結成キング・クリムゾンが3枚のアルバムを発表後に再び活動停止状態となる。

胸を膨らませていた。

当時、ブートも含め過去のクリムゾン作品を聴きまくっていた私も、クリムゾン再結成のニュースを聞き、「奇跡が起こった。」と思い、無宗教なのに何処かにいるはずの神様に深く感謝した。

実を言うと、この瞬間からが、私のクリムゾン・リアルタイム体験の始まりだっだ。そして、ニューアルバムが発売されると、私は即それを購入し、彼等のサウンドを楽しんだ。そう、正直言って、『ディシプリン』に関しては、ただ楽しんだだけなのだ。1974年に解散する以前の彼等の作品は、私に衝撃に近い感動を与えてくれた。しかし、新生クリムゾンは、『ディシプリン』を聴いて、そのノリの良さや一種のユーモアを効かせた楽曲の数々を心から楽しめはしたものの、感動と呼べるレベルの贈り物を私にくれなかった。



 楽曲を分析すると、変拍子も駆使しているし、ツインギターによる難解な複合フレーズという新しい試みも取り入れていた。ブラッフォードのドラムにも、かつては無かった音色が加わっているし、ブリューの表情豊かなギターも斬新で、レヴィンのスティックも実に画期的な楽器だったと思う。そして、クリムゾン休止中、ブライアン・イーノとのプロジェクト等で、ギター・サウンドにおける無限の可能性を追究していたという御大フリップの超人技には、さらに磨きが掛かっていた。ただ、時代性も影響していたのだろうが、全体的にこじんまりと纏まり過ぎてしまった楽曲は、衝撃や感動を与えてくれる類の物ではなかったのだ。事実、新作『ディシプリン』の曲ばかり演奏していたその日のライブでも、

“憧れのフリップとブラッフォードのプレイを生で見ている。”という感激はあったのだが、ニューアルバムの曲そのものに対しては、やはり楽しむだけというレベルであった。そして、(たしか)アンコールで彼等が過去の名曲“太陽と戦慄パート2”と“レッド”を演奏した時、初めて本物の興奮と感激が、落雷の様に私の心身を直撃したのである。もちろん、この2曲に対する既存の思い入れも大きかったとは思うが、新曲と比べると、やはりそのスケールの大きさに格段の違いがあった。

 このプロジェクトは、その後さらに

『ビート Beat』


『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー Three Of A Perfect Pair』


という2枚のアルバムを発表するが、

その音楽性は『ディシプリン』と同じ路線で、

3枚目の『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』において、ややパワーアップした感はあったが、あくまでその域であった。


 

これと並行して1989年には実質的なイエスの再結成バンドであるアンダーソン・ブラッフォード・ウェイクマン・ハウに参加し、1991年には再々結成したイエスのツアーに参加したが、

短期間で再び脱退。


1980年代、イエス再結成後の活動に於いて、

新メンバー、トレヴァー・ラビン(g, vo, key)のイニシアティヴによってコマーシャル化していったことに幻滅したジョン・アンダーソン(vo)が、1988年にイエスを脱退し、

『こわれもの』や『危機』を発表した頃のような、1970年代にあった創造性を蘇らせようと当時のメンツを呼び寄せて結成したバンドである。


メンバーはビル・ブルーフォード(ds)、リック・ウェイクマン(key)、スティーヴ・ハウ(g)とアンダーソンの4人で構成される。ベースにはキング・クリムゾンにおけるブルーフォードの盟友でもあるトニー・レヴィンを起用した。ラビンの良き理解者で80年代のイエスも是とする立場のクリス・スクワイア(b)は参加しなかった。マネージメントは1970年代にイエスのマネージメントをしていたブライアン・レーンである。アルバムのジャケットも1970年代のイエスの作品を描いていたロジャー・ディーンが起用された。



1994年には、ダブルトリオとして再編成されたキング・クリムゾンに復帰した。



アコースティックドラムへの回帰を志向する

ブルーフォードに対し、

パット・マステロットと同様に

ローランド製のエレクトリックドラム

「V-Drums」の使用を求めるロバート・フリップとの見解の相違から、

1997年に同バンドを脱退。以降、アースワークスや、ブルーフォード・レヴィン・アッパー・エクストリミティーズなど自身が中心となるプロジェクトで活動していくようになる。