starressのブログ

日々の、出来事を何となく綴りたいと思います。

多摩川七福神巡り⑦ 頓兵衛地蔵

矢口中稲荷神社から徒歩5分

やっと最後の多摩川七福神

頓兵衛地蔵、布袋尊に来ました。




(頓兵衛地蔵尊より)

新田義興謀殺を題材にして浄瑠璃

『神霊矢口渡』を書いたのが

平賀源内である。

彼はこの芝居の中で、

謀殺に一役買った船頭に“頓兵衛”という

名前を付けた。

この頓兵衛であるが、義興以下13名の

武将を船に乗せ、多摩川の半ばまで

来た時にわざと櫓を取り落とし、

それを拾うと偽って川に飛びこんだ。

さらに、あらかじめ細工していた船底の

栓を抜いて船を沈め、そのまま向こう岸に

泳いで逃げていったという。

ここまでのことをやれば、

直接手を下していなくても頓兵衛が

義興を殺したと言われても仕方が

ないところである。

この武蔵新田と言う所は

新田義興の無念と怨念が渦巻いている

地なんだな、と思いましたよ。


新田神社はその最もたる物ですね。

唸る狛犬なんて伝説も出来たし


十寄神社なども

謀殺された新田義興と、

同様に討ち死にした御家来衆を

祀る神社として創建された。


東八幡神社

こちらも新田一門の所縁の神社だそうです。

武士の町には勝ち運の八幡様が祀られて

います。


延命寺

新田義興の怨霊が放った雷によって

焼失した。という話が伝わっている。

火災を免れた延命地蔵尊を安置する

寺を再建する際に今の名前になった。


氷川神社

現在、氷川神社は新田神社の兼務社であるが、

江戸時代も新田神社の別当・

義興山真福寺(真言宗、

大正年間矢口2丁目の花光院に合併)

が当社の別当を兼ねていた。

しかし、新田神社は矢口渡で非業の

死を遂げた新田義興の鎮魂のために

建立された社であり、地域の産土神とは

性格が違う。鎮座の年代は不明だが、

里人が村の鎮守として武蔵国一宮・

氷川神社の御分霊を勧請したのであろう。

とあります。


そして駅の名前も武蔵新田ですね....

駅名「武蔵新田」の“新田”は、

駅近くにある新田神社に由来し、

他の地にある新田と書いて

「にった」や「しんでん」

と呼ぶ駅が存在していることから、

旧国名を冠して「武蔵新田」としたそうです。

大正12年(1923)11月1日、新田駅として開業。 大正13年(1924)4月1日、武蔵新田駅に改称。

と言う事から、この地....

武蔵新田は新田義興に彩られた町ですね。





⭕️矢口の渡頓兵衛地蔵尊堂


新田義興 謀殺に加担した船頭が

悔いて、地蔵を立てたと言われて

いるのですね。

かなり悔やんだ事でしょうね....

地蔵堂の中に何か見えました。

手前には布袋尊の置物と

奥には白くまだらに溶けている

地蔵尊が鎮座しています。


顔も何もわからない状態ですが、

これが頓兵衛地蔵尊なのでしょうか?

外にあるのは後に作られた地蔵なの

でしょうか...


竹沢・江戸の両名が義興の祟りに

あって死ぬに至って、頓兵衛も前非を

悔いて地蔵を一体作った。それが“頓兵衛地蔵”と呼ばれる地蔵なのである。だが、義興の祟りはこの地蔵にも直撃し、その顔を溶かしたのである。それ故、この地蔵は一名“とろけ地蔵”とも言われることになった。


住宅地の一角に頓兵衛地蔵の祀られたお堂がある。中を見ると(お堂の外ではない)、なるほどボロボロと崩れた地蔵であるのがわかる。実はこの地蔵は砂岩でできており、その崩れやすい材質のためにこのような姿になったらしい。またこのような姿であるために“いぼ取り”の効験があるとされ削り取られた、あるいは義興を殺した張本人が祀った地蔵に八つ当たりした者が石をぶつけてボロボロにしたという説もある。いずれにせよ義興の祟りの凄まじさを後世に伝える物証となった訳である。


ちなみにこの地蔵にはもう1つの説が存在する。この地蔵は義興の供養のために頓兵衛が作ったのではなく、祟りにあって狂死した頓兵衛自身の供養のために造られたものだという。


そして地蔵尊の左側をみると...

格子の向こうにいました。

布袋尊の御神体が、

納められていました。


多摩川七福神

布袋尊確認しました。


(ほてい、生年不詳 - 917年(?))

(Wikipediaより)


唐代末から五代時代にかけて

明州(現在の中国浙江省寧波市)

に実在したとされる伝説的な仏僧。

水墨画の好画題とされ、

大きな袋を背負った太鼓腹の

僧侶の姿で描かれる。

日本では七福神の一神として信仰されている。


本来の名は契此(かいし)

(または釈を付けて釈契此(しゃくかいし)

常に袋(頭陀袋)を背負っていたことから

布袋という俗称がつけられた。

四明県の出身という説もあるが、

出身地も俗姓も不明である。

図像に描かれるような太鼓腹の姿で、

寺に住む訳でもなく、処処を泊まり

歩いたという。

また、そのトレードマークである

大きな袋を常に背負っており、

生臭ものであっても構わず施しを受け、

その幾らかを袋に入れていたという。

その姿は風変りであったが素直な気持ちの

持ち主で、人々を満ち足りた気持ちにさせる

不思議な力を持っていたという。

その最期についても不思議な逸話が

伝えられており、仙人の尸解に類している。

天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり

(貞明3年(917)に嶽林寺で遷化したという

説もある)埋葬されたにもかかわらず、

後日、他の州で見かけられたというのである。

その没後あまり時を経ないうちから、

布袋の図像を描く習慣が江南地方で

行われていたという記録がある。


「景徳傳燈録」によると布袋は死の間際に

彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)

時時示時分 時人自不識(時時に時分を示すも時人は自ら識らず)

—布袋和尚、景徳伝灯録

という名文を残した。このことから、

実は布袋は弥勒菩薩の化身なのだという伝説が広まったという。



と言う事で、多摩川七福神終了です。


と言うより、新田義興の社、縁の地を

巡ったのですね....