starressのブログ

日々の、出来事を何となく綴りたいと思います。

狛犬巡り⑧武蔵新田 十寄神社(とよせ神社)

十寄神社

武蔵新田駅から新田神社を

通り、次に向かったのがここです。

多摩川、七福神の毘沙門天を

祀っているのですね。


ではまた一礼して

参りましょう.....


社伝によると、

正平十三年/延文三年(1358)

に創建とされる。

謀殺された新田義興と、

同様に討ち死にした御家来衆を

祀る神社として創建された。


ここも新田一族を祀る神社だったの

ですね.....

新田神社から余りに近いので

関連があるのかな?と思ってました。

十寄神社 狛犬


昭和十四年(1939年)六月奉納 

石工・池上石匠内藤

とあります。

新田の家紋が堂々と、映しだされて

います。

流れるたてがみが素晴らしくて

格好いい狛犬です。





阿吽像の阿像

子供像が壊れてるらしく

白く補修されて原型が分かりません。


(ネット解説より)

矢口村の「十寄明神社」として記されており

この頃には既に「とよせ」の

振り仮名が振ってある事からも

「十寄」の名でも呼ばれるようになって

いたのだろう。


御家来衆について詳しく記載されており

やはり13人とも12人とも描かれている。

元々の社号であった「十騎」は、

おおよそ10人といったニュアンスだった

のかもしれない。


古い過去の狛犬が最前列に

居ると言うのが素敵ですね。

鎮守の役割を終えて

境内の前に鎮座しているのは

初代狛犬へのリスペクトを

感じてしまいます。

心成しか狛犬たちの表情も

柔らかで嬉しそうに見えますよ。

新田神社の"唸る狛犬"も

端の藪の中じゃなくて

イチョウの木の隣辺りでも

良かったのに....と思いましたよ。


⭕️江戸時代の狛犬とされています。


享和三年(1803年)三月奉納 


石工名不詳

頭上には角?の様な名残があります。

ここの古い狛犬達は幸せですね



●写真は狛犬の尻尾

蝋燭の炎に例えられる。

江戸時代によく見られる形である。

高さは70センチほどの小型の

部類に属する。






「十騎社」として描かれ、

「じっきのやしろ」とふりがなが振ってある。

『新編武蔵風土記稿』には「十寄」

と記されていた事からも、江戸時代には

「十騎」と「十寄」は併用されていたと

見る事ができるだろう。

「十騎」に「十寄」という字が当てられて、

いつしか「とよせ」と読むようになった

ものと思われる。



新田義興については『太平記』

に顛末を記されている。


足利尊氏が没した半年後の

正平十三年/延文三年(1358)、

義興は好機と捉え鎌倉奪還のため挙兵。

これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、

関東管領の畠山国清は、

義興の進出を畏れ奸計を用いて

殺害しようとする。


鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、

室町幕府が関東における出先機関として

設置した鎌倉府の長官。

関東管領(かんとうかんれい)とは、

その鎌倉公方を補佐するための役職。

新田の元家臣であり足利側に寝返った

竹沢右京亮を使い奸計。

江戸遠江守とその甥・江戸下野守が

密かに300騎余を率い参加。


竹沢は協力する兵が鎌倉に多数いるので、

密かに鎌倉入りするべきだと義興を唆し、

これを信じた義興は、少数の側近のみを

従え夜明けに多摩川「矢口の渡し」に

誘い出し300騎余を率いて対岸の茂みで

待ち伏せをし、

更に船頭を買収して舟底に穴を空けさせ、

両岸から挟撃する手はずとなった。

義興と家臣が川の中ほどに漕ぎ出した

ところで、船頭が穴の栓を抜き逃げてしまう。

背後からは射手による矢が飛んできたため、

進退窮まった義興ら主従は対岸に泳ぎ着いて

江戸遠江守側の敵兵と斬り合いとなり討死。

(自刃したとも伝えられる)


⭕️十寄神社

武蔵新田駅から約8分くらい。

新田神社からは3分くらいで

到着ですね。